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茶の湯と茶室

                               平成20年8月初稿
                             平成21年11月修正加筆
                            平成24年 6月修正加筆
                                   辻本真明

 茶の湯には、日本の文化が凝縮されています。茶の湯に親しみますと、様々な日本の文化に触れることができます。同時に、解らないことが増えていきます。いくら時間があっても足りなくなります。

1.茶の湯とは

 世の中は、情報開示、バリアフリー。茶の湯の世界は、以心伝心、バリアだらけ。世の中から隔離された世界が面白いのかも知れません。これは、現在の世の中だから、そう言えるのではなくて、現在の形の茶の湯が始まった頃、およそ5百年前から言われていることなのです。室町時代後期、京の都の中で、ある公卿が茶の湯の宗匠の茶室を評して、「山居の体、尤も感あり、誠に市中の隠と謂うべし・・・」といっています。町の中なのに、山居の趣があり、素晴らしいというのです。

 茶の湯とは、「もてなし」の文化です。お茶を頂きながら、茶話を楽しみ、心を和(なご)ませる遊びです。遊びには、たいていルールがあります。ルールがないと面白くありません。茶の湯にもルールがあります。たとえば、茶事(ちゃじ:茶の湯の催し)では、最初に門を入る時から、最後に門を出るまで、誰も経路を案内しません。茶室では、手掛かり(戸を一寸ほど開けておいて、ここから入りなさいという合図)、露地(ろじ:茶庭)では、関守石(せきもりいし:こっちに行ってはいけないという合図)に導かれて行くだけです。作法というルールもあります。もてなす側(亭主)にも、もてなされる側(客)にも作法があり、約束事に従って茶事が進んでいきます。時間と空間の間(ま)を感じることができます。正式な茶事は時間が掛かります。
 一方では、「ちょっとお茶でも」と一碗のお茶を振る舞うのも茶の湯の本意です。南方録(なんぼうろく:江戸時代中期の茶書)には、千利休(
15221591)の話として、次のように書いてあります。「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事なり。これ仏の教え、茶の湯の本意なり、水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏に供え、人にもほどこし、吾ものむ・・・・」わび茶の精神です。「美味しかった」の一言が心を通わす一碗のお茶です。
 日常では、その場その場で、好きなように、お茶を楽しむのが一番良いと思います。
茶の湯では、視、聴、嗅、味、触の五感を駆使します。さらに、話、動、考を伴います。茶の湯は、日本独特の精神文化であり、生活文化です。

2.禅と茶の湯と茶道

 禅は、仏教から来ていますが、宗教を越えています。茶の湯も禅の影響を強く受けており、仏の心に学びますが、個々の宗教を問いません。いろいろな宗教の方が茶の湯を学んでいます。いろいろな宗教の人がいても、お互いに尊重する心とお互いから学ぶ心があれば、何の不都合も生じないはずです。

 応仁の乱の頃、一休宗純禅師(13941481)に参禅した村田光(むらたじゅこう14231502)が、茶の湯の開祖と言われています。「茶の湯の中にも禅がある。」ということらしいのです。「茶禅一味」とも言います。一休さんが生きていたら、野球の中にも禅がある。サッカーの中にも禅があると言われると思います。禅の開祖、達磨禅師は、面壁九年。禅は、一人でもできますが、茶の湯には、相手がいる難しさもあります。珠光によって、客の前で、亭主が茶を点てる形式が始められました。主客同座です。現在の茶室の形も、ここから始まっています。

 茶の湯は総合芸術と言われますが、それは、しつらえや茶道具、花、菓子にいたるまで茶席の趣向のために取り合わせられた個々の作品への印象の重なりがそう思わせるのかも知れません。茶の湯は、「もてなし」です。亭主は、客のために、茶室・露地を清め、道具の取り合わせを考えます。炭は湯の沸くように置き、花は野の花のように生け、そこには、自然にさからわない美しさや清らかさがあります。亭主も客も茶の湯の作法を身に付けていて、ルールに従って所作を行います。お互いを「思いやる」気持ちも必要です。美しい所作は、芸のように目に映るかも知れませんが、点てる、飲む、食べるという行為ですから、芸ではありません。この「もてなし」の作法を精神的に高めたのが千利休で、利休没後、弟子達によって、「茶道」という言葉が使われるようになったようです。茶の湯の道ということでしょうか。「もてなし」にたどり着くために茶道を修業し、茶の湯でもてなすのだと思います。

3.会席と懐石

 茶事では、お茶を頂く前に、食事が振る舞われます。これを懐石といっています。一汁三菜が基本ですが、豪華になり過ぎるきらいがあります。修業中の禅僧が、温石(おんじゃく:温めた石)を懐に入れて、空腹を我慢したそうですが、これを「会席」(料理の意)の文字に当てて、「懐石」としたもので、質素な食事が本来の意です。一汁一菜(御飯と味噌汁とおかず一品)でも十分です。お酒も出ます。懐石の文字が出てくるのは、南方録(1690頃)からで、しばらくは、会席と懐石が併用されました。懐石の文字が定着するのは、井伊直弼(宗観18151860)の頃だそうです。余談ですが、山上宗二(やまのうえそうじ15441590)は、客の心得として「一期に一度之参会之様に・・・」と言っています。これを直弼が「一期一会」と言い切りました。

料理屋の看板で、懐石料理というのを目にしますが、ほとんどが宴席料理で、懐石とはいえません。懐石では、最初に五穀豊饒に感謝して、御飯からいただきます。たいていの懐石料理屋では、最後に御飯が出てきます。ひと昔前の家庭料理は、懐石に近かったと思います。

4.茶会と茶事

 茶の湯の催しのことを古来、「茶会」と言っていますが、いつの頃からか、正式な茶会のことを「茶事」と言うようになりました。茶事の客は、5人までが適当(1人でもよい)です。茶事は、二時(ふたとき)、4時間に収めるようにします。前半を初座といい、懐石が振る舞われます。後半を後座といい、濃茶(こいちゃ)、薄茶(うすちゃ)が振る舞われます。亭主が一人で、客の接待に当たりますので、5人が限度ですし、準備も大変です。そこで、広い茶室を使って、多くの客を呼べるよう、茶事の一部あるいは、多くの部分を省略した茶会が、明治から大正の数寄者(すきしゃ)(茶人)によって始められました。これを「大寄せの茶会」と言っています。お菓子とお茶で、一席30分くらいで、何席か廻るような茶会がよく行われています。料理を出す場合も、点心、弁当のように簡略化されています。

5.本歌と写し

松花堂(しょうかどう)弁当という弁当が、今は、何処に行ってもありますが、一般名詞化されていて、偽装には当たらないようです。これは、京都の石清水八幡宮の社僧、松花堂昭乗(しょうじょう15821639)(寛永の三筆の一人)が、道具箱にしていたものを吉兆の創業者、湯木貞一氏(19011997)が、弁当箱(湯木美術館所蔵)に応用したものです。本歌の道具箱は、京都府八幡市(やわたし)の松花堂庭園美術館にあります。ここに、京都吉兆が店を出していて、松花堂弁当(3,500円)を頂くことができます。船場吉兆の不祥事は、残念なことです。親の心、子知らず。湯木貞一著「吉兆味ばなし」全4巻、名著です。

松花堂庭園には、昭乗が晩年を過ごした二畳の草庵(茶室)が移築されています。食・住・祈の小さな庵は、昭乗を訪ねて来る人が多かったようです。

 茶の湯では、よく「本歌(ほんか)」、「写し(うつし)」という言葉が出てきます。本物を本歌といいます。和歌からきています。写しは、本歌を真似して作ったものです。茶碗など、いろいろな道具に写しがあります。茶室にも写しがあります。しかし、写しを作るには、○○の写しというように、必ず、本歌を明らかにします。良く出来た写しであれば、写しであっても褒めます。名工が名工の作品を写す場合は、精神を写そうとするのだと思います。

6.茶室の成り立ち

 茶事、茶会を行うには、場所が必要です。その場が、茶室であり、露地(茶庭)です。

 室町時代、武家の住宅様式である書院造りが造られ始め、能阿弥が書院飾りを完成し、茶道具も飾られました。足利義政(14361490)が作った東山殿(慈照寺(銀閣寺))の東求堂同仁斎(とうぐどう どうじんさい)は、現存する最古の四畳半で、付書院と違い棚を持っています。相阿弥が記した御飾書には、この違い棚に茶道具が飾られていた記録があります。そのため、「同仁斎は茶室の起源である。いや、そうではない。書斎である。」という議論があります。私は、書斎でもあり、茶室の起源でもあったと考えています。

 亭主と客が同座して、亭主が客のために点前をする形式は、室町時代、村田珠光が始めたといわれています。そのための専用の空間も珠光によって造られました。それは、四畳半茶室で、真の座敷といい、一間幅の床(とこ)の壁に鳥子紙(卵肌の和紙)を張り、床框(とこがまち)は真塗、天井は杉板縁なし、屋根は小板葺宝形造(こいたぶきほうぎょうづくり)でした。以来、四畳半が茶室の基本となります。武野紹鴎(たけのじょうおう15021555)は、四畳半を侘びた意匠に改め、床の壁を土壁、床框を薄塗又は白木とし、木格子を竹格子とし、腰板のない障子を取り入れました。これを草の座敷といいました。南方録には、このように書かれていますが、紹鴎から利休の時代に、茶室が草体化していったと言う方がよいでしょう。利休は、精神的なものを重視し、茶室を縮小していきました。屋根は、茅葺になりました。利休の遺構、待庵(たいあん:国宝)は二畳です。しかし、利休が没すると茶室は、拡大していきます。利休の弟子の大名達は、各々の工夫を加えてゆとりのある大きさの茶室を作り出します。江戸時代、茶の湯は、庶民に広まり、如心斎(じょしんさい:表千家)、又玄斎(ゆうげんさい:裏千家)らは、稽古の方法として、七事式というゲーム感覚の稽古形式を考案します。七事式は八畳間で行います。このようにして、様々な広さの茶室が出来ていきます。茶室は、四畳半を正式の茶室として、それより小さい茶室を小間、大きい茶室を広間といっています。

 茶室(数寄屋ともいう)は、古来、茶人達が、創意工夫をして造ってきたもので、自由な建築です。ただし、茶の湯の場ですから、茶の湯の約束事を守っておく必要があります。そうしないと、茶事、茶会に支障を生じます。亭主の動線、客の動線をよく考えて、計画することが大切です。

 明治後半から大正、昭和初期にかけて、茶の湯が大変盛んになった時期があります。それを牽引したのは、益田孝(鈍翁18481938)、高橋義雄(箒庵18611937)などの東京の実業家達でした。跡見花蹊(18401926)などは、女子教育に茶道を取り入れました。そして、多くの茶室も建てられました。日本各地に、その当時の優れた茶室、露地が残っています。私は、淡路島にあるいくつかの茶室を残したいと思い、働きかけています。

7.参考文献

参考文献を記します。茶の湯に興味のある方に、ご参考まで。
「南方録を読む」 熊倉功夫著 淡交社・・・・・・・・茶道を習っている方へお薦め。
「近代数寄者の茶の湯」 熊倉功夫著 河原書店・・・実業家が登場。誰にでも面白い。
「初期茶道史覚書ノート」 永島福太郎著 淡交社・・・バラエティーに富んだ研究書。
「懐石の研究」 筒井紘一著 淡交社・・・・・・和食の歴史に興味がある方へお薦め。
「茶道の歴史」 桑田忠親著 講談社学術文庫・・さっと読めて、解った気になります。
「茶道の哲学」 久松真一著 講談社学術文庫・・・・何かと役に立つかも知れません。


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