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茶室設計メモ

1.茶室とは

 茶室とは、何でしょうか。理想的な表現をすれば、露地、待合、本席、水屋、厨房など茶事をするための一連の施設のうちの主たる部屋(本席)です。露地、待合、本席、水屋、厨房などを合わせて茶室ということもあります。しかし、現代の住宅事情や資力を考慮するとすべての施設を整備することは、困難です。部分的に施設を省略したり、他の施設で代用することも致し方ありません。茶事ができなくても、お茶を頂くことができれば、茶室であるという考え方もあります。人それぞれでよいと思いますが、少なくとも主客が同座して、亭主がお点前をするのに支障がない配置になっていることが茶室の必要条件であると考えます。茶室でない部屋を一時的に呈茶できるようにしつらえることもできますが、これらは、仮の茶室です。何処でも、茶室に見立て、お茶を点ててあげられる人が本当の茶人かも知れません。
 茶室という呼び方が、定着したのは、明治になってからのようで、茶室の創世記から、それまでは、囲い、座敷、小座敷、数寄屋、草庵などの呼び方が使われました。以下では、時代にかかわらず、すべて茶室で統一して述べさせていただきます。


2.茶室の成り立ち

 中国では、八世紀、唐の陸羽(りくう)が茶経を著しました。日本でも八世紀頃から茶が飲まれ、12世紀に至って、栄西(えいさい又は、ようさい)によって、臨済禅と抹茶法が伝えられました。16世紀に至って千利休によって、茶道が大成されました。以来様々な経緯を経て、現在に至りますが、大まかに言えば、陸羽から栄西まで400年、栄西から利休まで400年、以来現在まで400年の歴史があります。この1200年の歴史の中で、侘茶の完成に要した期間は、15世紀半ばから17世紀半ばにかけてのわずか200年間ほどです。この間に、多くの人材が、茶の湯の形成にかかわりました。この200年ほどが茶の湯1200年の歴史であるといっても過言ではありません。
 
 室町時代、武家の住宅様式である書院造りが造られ始め、能阿弥が書院飾りを考案し、茶道具も飾られました。
足利義政(1435〜1490)が作った東山殿(慈照寺(銀閣寺))の東求堂同仁斎は、現存する最古の四畳半で、付け書院と違い棚を持っています。君台観左右帳記には、この違い棚に茶道具が飾られていた記録があります。そのため、「同仁斎は茶室の起源である。いや、そうではない。書斎である。」という議論があります。私は、書斎でもあり、茶室の起源でもあったと考えています。
 
 亭主と客が同座して、亭主が客のために点前をする形式は、室町時代、村田珠光(1423〜1502)が始めたといわれています。そのための専用の空間も珠光によって造られました。「四畳半は珠光の作事也、眞座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板葺き、寶形造、一間床也・・・」南方録には、四畳半座敷は、珠光の作事であると書かれています。真の座敷といっています。それは、鳥子紙白張付、一間床、杉板縁なし天井、小板葺宝形造でした。以来、四畳半が茶室の基本(式正の茶室)となります。「紹鴎に成て、四畳半座敷所々あらため、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床のぬりぶちを、うすぬり、又は白木にし、これを草の座敷と申されし也・・・」武野紹鴎(1502〜1555)は、四畳半を侘びた意匠に改め、土壁床、竹格子、腰板のない障子、床框を薄塗又は白木としました。これを草の座敷といいました。このように、茶室は、草体化していきます。千利休(1522〜1591)は、精神的なものを重視し、茶室を縮小していきました。屋根は、茅葺になりました。千利休の遺構、待庵は二畳です。しかし、千利休が没すると茶室は、拡大していきます。千利休の弟子達の大名は、各々の工夫を加えてゆとりのある大きさの茶室を作り出します。一方、千家においては、千宗旦が侘茶を追求し、一畳台目の今日庵を残しています。江戸時代、茶の湯は、庶民に広まり、稽古の方法として、如心斎(表千家)、又玄斎(裏千家)、川上不白等が七次式を定めます。七次式は八畳間で行います。
 このようにして、様々な広さの茶室が出来ていきます。茶室は、四畳半を正式の茶室として、それより小さい茶室を小間、大きい茶室を広間といっています。基本的には、小間、四畳半、広間の三つのグループに分けられます。


3.どのような茶室を造るか

3−1 茶室の間取り、茶室の大きさ
 どのような茶の湯をやりたいのかによって、茶室の広さを選べば良いと思います。侘びた茶をするなら小間、棚物を使いたいなら広間になります。四畳半では、すべての点前が可能ですから、一つだけつくるなら、四畳半が良いと思います。七次式をするなら、八畳が必要です。大寄せの茶会をするなら、八畳以上の広間が必要でしょう。
亭主と客の心が通い合うのは、やはり小間だと思います。ゆったりしているのは、四畳半台目、四畳半あたりまででしょうか。三畳台目、三畳、二畳台目は、緊張感があります。二畳台目下座床は、床、客、亭主のバランスがよいと思います。二畳、一畳台目は、亭主に余程の思いがないと造れないと思います。

3−2 客の数
 「初終の仕廻(しまい)二時に過べからず」(南方録)とあります。茶会は、二時(ふたとき)を過ぎないようにと言っています。4時間です。実際、客も亭主も緊張感を保てるのは4時間が限度です。4時間で終わるためには、客は4人以下でないと良い茶事は出来ないと思います。多くとも5人です。懐石は一汁三菜までとし、預け鉢等はない方が後座のお茶を美味しく頂けます。客と畳の関係は、半畳に一人が、理想的ですが、京畳ならば、一畳に3人でもゆとりはあると思います。四畳半であれば、客3人が、互いの気持ちも伝わりやすく、茶室にも馴染むのではないでしょうか。

3−3 茶室の雰囲気
 茶室の広さを決めると、次ぎに、どんな雰囲気の茶室にするか考えることになると思います。茶道具と同様に、茶室にも茶人の好みがあります。それまで使った茶室、見た茶室の気に入った所を取り入れたり、自分の気に入った材料を使いたいということで、計画を煮詰めていくのだと思います。尊敬する茶人が造った茶室の影響は大きいと思います。床の大きさ、床柱、床框、中柱、壁の色、天井構成、窓の構成、出入口の形、建具等が目立つところでしょうか。私は、使い勝手の良い茶室が、一番良いと思います。亭主の使い勝手もありますし、客の使い勝手もあります。使い勝手の一つに、茶室内の明るさがあります。年をとってきますと、視力が落ちますから、明るい方が有り難い気がします。精神的なものを重視すれば、明かりは、抑えめになりますし、気楽な雰囲気にしたければ、明るめが良いのでしょう。茶室の明るさは、短期的には、季節、天候によって、日々変化します。長期的には、露地の木々の成長によっても変化します。

3−4 茶室の写し
 道具と同じように茶室も写しが造られることがあります。写したい茶室があったとしても、時間の経過まで写すことはできません。できた茶室は、新しい茶室です。年月の経った茶室と新しい茶室では、明るさが全く異なります。材料にしても、自然の材料ですから、同じものは、手に入りません。写せるのは、構成、大きさ、寸法、材料の種類といったものです。茶室の寸法とおよその形は、再現することができますが、材料に自然木を使っているため、同じ曲がり具合、同じ節目の木はあり得ません。茶室は、木の節の位置、微妙な曲がり具合で随分雰囲気が変わってきます。また、年月が経って、生地の色が変わってきます。年を経た茶室が気に入って、写しを造ったとしても、出来た茶室の雰囲気は、全く異なったものになります。塗装によって、古い感じに似せることはできますが、良いとも思いません。また、茶室の周囲の木の高さ、密度によっても、明るさに大きな影響がでます。回りの環境は、変わっていきます。その辺りをよく考えて、写すというよりも、習って造るというという方が良いのではないでしょうか。

3−5 茶室の向き
 紹鴎の頃までは、茶室は、北向きに建てられていました。他の向きもあったようですが、南向きは、道具をみるのには、光量が多すぎるため、避けたようです。当時は、光は、障子を透して一方からのみ入っていました。利休は、茶室を南向きにしました。入り口は、躙口とし、窓を設けました。窓を付けることによって、光量の調節が可能となりました。

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4.茶事と茶室・露地

 茶事では、最初に門を入る時から、最後に門をでるまで誰も経路を案内しません。手掛かりと関守石(せきもりいし)に導かれて行くだけです。客と亭主は、交差することはありません。客の動線と亭主の動線が交差しないように、待合、本席、水屋等を配置する必要があります。

4−1 寄付(よりつき)(袴付け)
 客は、足袋を履き替えたり、羽織を取ったりしますので、客が身繕いする部屋が必要です。男子は、本来は、袴を持って行きますので、袴をつける場所がいります。不要な荷物もここに置いていきます。寄付と待合は、兼ねる場合も多いですが、先客の前で、身繕いもしにくいので、寄付とまではいかなくても、待合に入る前に、ちょっとしたスペースがあるとよいと思います。寄付には、客が荷物などを入れる乱盆(みだれぼん)を置きます。

4−2 待合(まちあい)
 待合にも、掛け物があり、煙草盆が置いてあります。茶事は、待合で湯を頂くことから始まります。冬は、火鉢を置く余裕があるとよいです。茶事の趣向は、待合から始まっています。湯をいただくと外露地に出ます。

4−3 腰掛待合(こしかけまちあい)
 外露地にあります。腰掛は、5人が掛けられるように造れば良いと思います。約一間半(九尺)必要です。これに4人が座るとゆったりして、良い感じになります。円座と煙草盆を下座に置きますから、亭主が座る位置は、分かりますが、それがなくても、正客の座る位置が分かる造りにする方が良いと思います。正客は、役石を見ますので、役石は分かりやすく据える必要があります。
 正客の位置は、茶室あるいは蹲踞に近い方に設定します。正客は、亭主の動きに合わせて、行動しますので、亭主を見やすいように、腰掛待合を配置します。かといって見え過ぎてもいけません。ほどほどが肝要です。

4−4 中門(ちゅうもん)
 外露地と内露地の境界にある門が中門です。中潜(なかくぐり)、萱門(かやもん)、枝折戸(しおりど)などの形式があります。ここで、亭主の迎え付けがあります。

4−5 蹲踞(つくばい)
 蹲踞とは、蹲って使う手水鉢(ちょうずばち)、蹲踞手水鉢のことです。
客は、内露地を進んで、茶席に入る前に、蹲って手水を使い、手、口を清め、心も清めます。厳冬期には、蹲踞に湯桶を置くことがありますが、利休居士は、これを嫌ったようです。蹲踞は、清めるためにあるものですから、水で清めるのが本来であると思います。湯桶が置いてあるのは、亭主の心配りです。鉢穴(水を入れる穴)は、5人の客が遣うに十分な大きさが必要です。鉢穴は、亭主が入念に掃除をします。茶事の直前まで、板などで覆い、鳥や虫を防ぎます。
蹲う姿勢は、不安定ですから、石の配置には配慮が必要です。(後述参照)

4−6 水屋(みずや)
 水屋(水遣、水谷とも書きます。)は、亭主の準備室です。使い勝手が良いように計画します。広さは、(茶室畳数÷4+3)畳以上くらいは欲しいものです。茶事の場合では、水屋は、亭主(又は、亭主と半東)だけですが、懐石料理の経由地でもあり、余裕のある水屋は、よいものです。水屋の中が客から見えない工夫も必要です。屏風で目隠しする場合は、その分も考慮に入れて、水屋の広さを決めます。茶室と水屋の間に、鞘の間を配置できると、使い勝手は大変良くなります。
 八畳広間では、七事式の場合、全員が茶室(八畳)の外で取り決めをして、始めますから、水屋は、広い方がよいと思います。続きの広間があって、一席20〜25人くらいの大寄せの茶会をするとすると、水屋で点て出しをしますので、点茶、菓子、運びで、計7〜8人くらいの人数が動きます。四畳半〜六畳くらいの水屋か準備室が必要になります。
 水屋には、水屋棚を配置します。稽古場の場合、一間(いっけん)幅があると、点前の準備がしやすくなります。そうでない場合でも、台目幅(一間の約四分の三)くらいあると、使い勝手が良いですし、茶事の準備に便利です。茶碗棚(簀の子棚)には、茶碗が乾きやすいよう板に小竹を挟みます。腰板には、柄杓などを掛ける竹釘を打ちますが、柄杓の長さを把握して、竹釘の高さを決めて下さい。棚の下は、竹簀の子の流しですが、簀の子の手前部分は、水が飛んだりしますので、板敷きにすると良いです。揚げ板にして、炭入れを造ることも出来ます。丸炉が設置できると、茶事はやりやすくなります。常に湯を準備しておく他に、下火炭や、火入れ炭、手あぶりの炭の準備も火力が強いので、安心です。この場合は、換気設備が必要です。

4−7 厨房
 5人分の懐石料理が作れる広さが必要です。折敷を五つ並べられる盛り付けの場所も必要です。6畳くらいの広さがあるとよいと思います。水屋から近く、かつ厨房の音や臭いが席中に伝わらない配慮が必要です。水屋にコンロを設けて調理をすることは、出来るだけ避けて下さい。お茶の道具に臭いが移ってしまいます。草庵で竈を設けるような方は別として、極力水屋と厨房は分離して下さい。茶事の準備には、ガスコンロは、少なくとも三つは必要です。飯、汁、酒燗、煮物椀の準備が重なります。熱い煮物椀を出すためには、具を温め、出汁を温め、椀を温めます。蒸器を使う場合もあります。これに汁替が重なり、酒の燗もあります。ガスコンロは、火力の強いものにして下さい。火力の弱いコンロは、時間のロスになります。三つの常設コンロの他に携帯コンロを一つ置けるようにすると良いと思います。IHコンロは、炭を起こせませんので、別途配慮が必要です。調理が重なるため、鍋や調理用具は、かなりの数になります。個人の茶室の厨房であれば、調理用具を収納する造り付けの戸棚があると、茶事の準備も片付けも楽になります。懐石道具の出し入れは、大変ですから、よく茶事をなさる方であれば、懐石道具の一揃いを厨房の収納戸棚に仕舞えるようにすると理想的です。換気設備は、重要です。システムキッチンを採用される方は、白主体で清潔感があり、茶室になじむ配色にして下さい。洗い場(流し)は、懐石道具、鍋などを支障無く洗えるよう、大きめに造る必要があります。

4−8 トイレ
 禅宗では、トイレを雪隠(せっちん)といい、雪隠の掃除は重要な修行の一つでした。露地では、飾り雪隠として、拝見するだけですが、雪隠の掃除が行き届いているかどうかで、亭主の心入れの程が分かってしまうのです。新設の茶室では、飾り雪隠は、省略する場合がほとんどですが、トイレの重要性に変わりはありません。
 亭主側の動線と客の動線が交差しないよう、出来れば、トイレは、客用と水屋用に分けた方がよいと思います。トイレが一カ所しかとれない場合は、客の通路と亭主側の通路を設ける必要があります。腰掛待合に付属して外にトイレがある場合は、露地草履を履き替えて入る配慮が必要です。露地草履は、手で触る物ですから、茶室を造る側が、配慮しないと不都合が生じます。和服の客のため、トイレは、広めにした方が、良いと思います。茶事は、4時間、トイレは、必須です。

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5.茶室の構成要素

5−1 炉(ろ)
 炉は本勝手に切るのが通常です。点前座の亭主の右側に客が座る席構えを本勝手といいます。その逆、左側に客が座る席構えを逆勝手といいます。逆勝手にするのは、水屋の配置上、逆勝手にならざるを得ない場合か、二間あって趣向を変えたい場合、あえて逆勝手の小間をつくりたい場合でしょう。茶道の創世記には、左勝手(今の本勝手)、右勝手(いまの逆勝手)という使い分けをしていました。左勝手が主流になったころから、左勝手を本勝手、右勝手を逆勝手と言うようになったのだと思います。点前は、右手系でできていますから、本勝手の方が、客から亭主の所作が見えやすいため、自然な感じなのだと思います。
 従来の日本の住宅では、ユカ下が一尺五寸以上あったので、問題なかったのですが、近年の住宅は、ユカが低い傾向にあり、炉壇が設置できない場合がありますで、設計時に配慮が必要です。
 「炉の切り方」
 炉の基本的な切り方は、本勝手四通りと逆勝手四通りで、合計八通りあります。これを八炉(はちろ)と呼んでいます。本勝手と逆勝手は、茶室の中心線で折り返した対称の位置にありますから、以下では、本勝手四通りについて述べます。
@ 隅炉(すみろ):点前畳の左上角に炉を切ります。小間の丸畳(一畳分の畳)、台目畳ともに可能です。
A 向切(むこうぎり):点前畳の右上角に炉を切ります。小間の丸畳、台目畳ともに可能です。
B 台目切(だいめぎり):点前畳が台目畳の場合に、台目畳の右隣りの下座の畳の左上に炉を切ります。点前畳の外に切りますので、出炉(でろ)といいます。(隅炉、向切は、入炉(いりろ)といいます。)点前畳が、丸畳の場合は、点前畳の右隣りの上座の畳の左下に炉を切ります。通常の台目切に対して、炉一つ分、上げて切ることになりますので、これを上げ台目切(あげだいめぎり)といいます。
以上、@隅炉、A向切、B台目切は、小間の炉の切り方です。小間の点前をする小間以外の茶室(小間据え)も含みます。
C 四畳半切(よじょうはんぎり):四畳半で、点前畳の右隣りの下座の畳(半畳)の左上に炉を切ります。出炉になります。
 八畳に炉を切る場合は、四畳半切と同じ位置に炉を切ります。点前畳の隣りの丸畳の左上の位置になります。八畳に切る四畳半切を広間切と言うこともあります。四畳半と八畳では、点前は同じです。何が違うかといいますと、四畳半では、茶道口から半畳の踏込畳を通って点前畳に入ります。これに対し、八畳では、丸畳(一畳)の踏込畳を通って点前畳に入ります。点前には変わりがありませんので、四畳半でも八畳でも四畳半切というのが通常です。
 その他、畳の敷き方や中板等の付加で、特殊な構成もありますが、炉の切り方は、点前を本位に考えますから、八炉が基本です。

5−2 床(とこ)
 水屋との関係で、点前座が決まりますから、床と客と点前座のバランスを考えて、床の位置を決めます。格が高いのは、上座床です。小間では、客の入り口(躙口、貴人口)から分かり易い位置にあるのが良い位置になります。客が、入り口を開けた時、正面に墨蹟(掛け軸)が見えるのが、一番良いと思います。墨蹟が客を待っていてくれたように見えるからです。正客は、小間では床付きに座り、広間では、初座は床付き、後座は炉付き(釜付き)に座ります。これは、流派によって異なりますが、床の配置によっては、客と亭主とが互いに見えにくくなる場合があります。床の位置は、茶室内での客と亭主の位置関係も考えて決める必要があります。正客と亭主の心が通い合う配置が良いと思います。小間の出炉(台目切)では、茶碗や道具を扱う場合に、下座床の方が、亭主、正客、詰の位置関係がスムーズになります。
 花月など七事式を行う場合は、茶室は八畳、床は上座床です。上座床のうち貴人畳の位置にある床を花月床といいます。
 床の幅、奥行、落掛高は、茶室のバランスから決めます。床の天井高は、所蔵の掛け軸が掛かるよう注意して下さい。床柱、框、落掛は、銘木店へ足を運んで見て下さい。
 茶室を一つ造るなら、柱、框のついた畳床をお勧めします。畳床の場合は、花入に薄板を敷きますから、真、行、草どのような花入でも釣り合います。板床の場合は、花入を床に直接置きますから、相性があります。板床の変化型には、蹴込(けこみ)床、踏込(ふみこみ)床などがあります。また、壁の上部に雲板を入れ、軸釘を打って床に見立てた壁床(織部床)もあります。
 床の花釘には、中釘(無双釘)、柱花釘、柳釘、釣花入用の花蛭釘があります。昔の席は、一般的に高めに打ってあります。あまり花が遠くならないよう、高過ぎない位置に打って下さい。茶会に行った時に、近くからばかり花を見ずに、遠くから、床のバランスを見ることも心掛けて下さい。
 床は、墨蹟と花が主役ですから、凝り過ぎないことが肝要です。

5−3 畳
 茶室の畳は、京畳を使うのが望ましいのです。京畳(京間畳)の長辺寸法は、6尺3寸(1910mm)、短辺寸法は3尺1寸5分(955mm)です。一方、江戸間畳(田舎畳)の寸法は、長辺約5尺8寸(1758mm)、短辺約2尺9寸(879mm)です。京間と江戸間の差は、長手方向で152mm、短手方向で76mmあります。8畳間の面積で比較すると、2.23uの差があります。畳一枚以上違うことになります。江戸間では、お点前が、窮屈になりますし、台子(だいす)が物によっては、畳に収まらないことになります。足運びも、京畳で慣れておかないと、着物では、足が届かなくなります。
 小間の点前では、棚物を使いませんので、点前畳に台目畳(だいめだたみ)を用いる場合があります。台目畳は、京間の丸畳(一畳分の畳)6尺3寸から、台子の幅1尺4寸と風炉先の厚さ1寸を差し引いた4尺8寸の長さの畳です。幅は、丸畳と同じ3尺1寸5分です。
 茶室のある家を新築されるとき、少なくとも茶室の畳だけは、京畳にすることをお勧めします。江戸間の茶室を京間に改造しようとすると、江戸間の8畳には、京間の4畳半、6畳には、3畳、四畳半には、2畳しか収まりません。同じ畳数にするには、壁を壊さなくてはなりませんから、難しい改造になります。
 風炉の季節には、炉畳を丸畳(炉の部分を切り取っていない畳)に入れ替えます。風炉の季節には、炉の姿を消すのが本来の姿です。畳の置き場所がない場合、炉の部分だけ1尺4寸四方の畳を嵌め込む場合もありますが、余裕のある場合は、畳の収納場所を確保しておきます。

5−4 窓
 茶室は、光量によって、雰囲気が変化します。茶事の初座と後座とでは、随分と雰囲気が違うものです。茶事の二時(4時間)の間には、日の入ってくる方向も変わります。茶室が高台にあるか、木に囲まれた所にあるかでは、光量が全く違います。日差しの強いところでは、光量を遮るように、日差しの弱い所では、光を多く取り入れるように窓の配置と大きさを決めます。連子の間隔で調整することもできます。
利休作の待庵は、窓が二カ所だけです。古田織部、小堀遠州は、窓を増やしました。八窓庵等があります。現代の人は、昼でも室内で照明を使っているため、明るい場になれています。そのため、特に、茶室が暗く感じられます。なるべく、自然光だけで、茶の湯を楽しみたいものです。曇りの日は、茶室は、随分暗くなりますので、床の掛け物も見にくいですし、亭主は、茶碗の中の濃茶の練り具合が、よく見えません。風呂先窓は、亭主にとって有難いものです。床には、落としがけの内に、照明を設置することが、多いですが、準備の時のために付けると思って下さい。
例えば、東、南、西が外壁の茶室があるとします。太陽の動きを考慮して、各々の面に一つづつ窓をつけます。点前の時、風炉先窓は必要です。突き上げ窓は、光量が多いので、欲しいものです。そうすると、窓は5窓になります。

5−5 躙口(にじりぐち)
 利休以前は、客は、障子から入りました。利休は、茶室に身一つで入るように、躙り口を考案しました。入るのは、簡単ですが、出る時は、苦労します。待庵は、高さ約2尺6寸、幅約2尺4寸で作られています。その後、高さ2尺3寸弱、幅2尺1寸弱まで、縮められました。現代は、体格が大きくなったこと、女性が増えたこと、お年寄りが苦労することを考慮しますと、待庵の大きさを越えない範囲で、大きめに作った方が良いと思います。利休没後、躙口の他に、明り障子による貴人口を併用する風潮が出てきますが、本来は、躙口だけにするものだと思います。足の悪い方のために、障子の入口を設けることは、もちろん良いことであります。

5−6 廊下
 客が廊下から席入りする場合、客は廊下に座って扇子を置き、躙って入ります。廊下が板敷で、段差があると、客は、躙って入れません。したがって、廊下は、板ではなく、畳敷きの方が好ましいのです。亭主側も、手を付いて挨拶しますから、畳敷が良いのです。畳目は、着物が滑る向きと一致していますが、廊下板の板目は、抵抗する向きに、板目と継ぎ目がありますから、躙りにくいのです。

5−7 収納庫
 茶の湯の道具は、炉用の道具、風炉用の道具があり、季節毎の道具もあります。棚物や風炉、釜などは、場所を取ります。そのため、道具を仕舞う場所を出来るだけ多く取っておく必要があります。道具は、桐箱に入っているため、嵩張ります。押入は、すぐに、いっぱいになってしまいます。出来れば、道具部屋を確保することが望ましいと思います。


6.仮の茶室

 お点前の稽古をしておられる方は、友人などを招いて、茶会をしたいと思っておられる方が多いと思いますが、茶室を借りると相当な費用がかかります。茶室を借りても、道具類を持っていくのは、大変な労力を要します。かといって、自宅では、狭くて出来ないといわれる方が、多いと思います。そう言わず、普段、訪ねてこられる仲の良い友達のために茶会をされたら良いと思います。自宅では、台所もあるでしょうし、懐石道具も日用品を代用したり、見立てたりしたらよいと思います。茶の間、居間、リビングルームを少し片付けて、軸とはいわず、気に入った色紙を掛け、花を入れ、一汁一菜、濃茶、薄茶で気軽な良い茶会ができると思います。
 もし、マンションなどで、入口が一つしかない6畳の部屋があるとすると、屏風等で囲って3畳の仮の茶室を設定します。残り2畳を客の通路にあて、1畳分に水屋板を敷いて、亭主の準備に当てます。こうすれば、襖がないだけで、あとは、茶室の雰囲気ができます。炉が切ってなければ、1年中、風炉でかまいませんし、茶箱を使っても良いと思います。炉の雰囲気が欲しければ、置き炉を使う方法もあります。機密性の高い部屋では、換気が必要です。


7.露地(ろじ)

 茶室に付属する庭を露地と言います。
 16世紀初期、公卿鷲尾隆康が、京都下京で茶の湯をしていた村田宗珠(村田珠光の後継)の庵を「山居の躰、尤も感有り、誠に市中の隠と謂ふべき」(二水記)と評しました。当時の京都では、町の中で山居の趣が味わえる造りが好まれていました。その後、武野紹鴎、千利休を経て、露地の形態がが整えられていきました。利休の頃は、「路地」という文字が使われていましたが、利休が路地の精神性を高めたことにより、仏教的解釈が加わって「露地」になったと思われます。
 客は、待合から露地草履に履き替え、外露地に出て、腰掛待合で心の準備をします。中門(枝折り戸)で、亭主の迎え付けがあり、その後、内露地に入り、蹲踞で手水を使います。客は、露地の風情を味わい、塵穴を拝見して、茶室に入ります。中立ち、退出まで露地は、重要な役割を果たします。
 露地は、広くても、狭くても、茶事に大きな影響を及ぼします。露地の構成を上手に造ることは、勿論ですが、亭主は、茶事の前に、よく掃除をして清めることが肝要です。茶事では、蹲踞で手水を遣った後、躙口から茶室に入る時に、露地草履を扱い、その手で茶碗も扱います。これは、露地も茶室も全てが清められていることによって、可能になることです。

7−1 飛石(とびいし)
 飛石は、見た目に心地良く、かつ、自然に心地よく歩けるのが良いと思います。石の間隔は、女性が着物で歩く間隔にすべきでしょう。その場合の歩幅は、42〜45cm 程度です。腰掛待合付近、蹲踞付近、躙口付近には、客の動きに応じて、十分な数の石を配置します。中立の時、後座が始まる合図の銅鑼を蹲って聴きますので、腰掛待合周囲には、安定の良い大きめの石が必要です。中央が窪んだ石は、水を拭き取るのも大変ですし、雨天時は水が溜まりますから、使わないようにします。丸い石も滑って危険です。露地草履でも下駄でも歩き易い石を選んで下さい。利休は、「わたりを六分、景気を四分」、織部は、「わたりを四分、景気を六分」と言われましたが、両者とも、同様に、渡り(歩行)の安全に気を使ったことは言うまでもありません。

7−2 蹲踞(つくばい)
 蹲踞とは、蹲踞手水鉢の略称です。水を入れる手水鉢(ちょうずばち)、手燭(てしょく)を置く手燭石、湯桶(ゆおけ)を置く湯桶石、人が蹲う前石、水をこぼす海(うみ)から成ります。表千家では、手燭石を左、湯桶石を右、裏千家では、手燭石を右、湯桶石を左に置きます。手燭石は、湯桶石より若干高く据えます。前石は、客が、蹲いやすいよう、平らで安定の良い大きめの石を据えて下さい。海には、水が跳ねないよう、五郎太石、那智黒などを入れます。近傍には、石灯篭を据えます。流派によって、役石の配置が異なりますが、使用上さほどの問題はありません。
 雨の時は、手水を遣う人の露地笠を持ってあげる必要がありますし、お年寄りを補助することもありますので、前石近くに、控え石を添えて置くと良いと思います。

7−3 塵穴(ちりあな)
 外露地には四角形、内露地には丸形の塵穴を配置します。塵穴には、景の良い覗石(のぞきいし)を置きます。茶事の時には、覗石に、青竹の塵箸(ちりばし)を立て掛け、葉を添えます。露地を掃除し、打ち水をして、客を迎える準備が整ったことを示しています。客は、茶席に入る前に、心の塵が残っていたら、塵穴に捨てれば良いと思います。

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8.近代の数寄者

 明治時代後半から大正、昭和初期にかけて、茶の湯が一世を風靡しました。近代の茶の湯の足跡を熊倉功夫氏著「近代数寄者の茶の湯」その他を参考にして、概述してみましょう。

 江戸時代、武家や公家、豪商が主体となって、茶の湯の伝統が受け継がれていきました。ところが、明治維新にともなって、西洋文化が流入し、一方では、神仏分離令による廃仏毀釈運動により、日本の伝統文化は、危機に瀕しました。武家の没落とともに美術品の価格は暴落し、日本の美術品が大量に海外へ流出していきました。多くの貴重な美術品を含む茶道具も同様でした。茶の湯文化も大打撃を被りました。この日本文化の危機的状況を危惧し、美術品の海外流出を防いだのが、財界の指導者達です。彼らは、海外流出を防ぐべく、美術品を収集する中で、多くの茶道具も収集しました。彼らは、日本文化の伝承の必要性を感じていましたから、集めた茶道具を使って茶の湯を嗜むことは、自然の成り行きでした。彼らの茶の湯は、全くの趣味であり、茶事・茶会が主体でした。気の合った財界の有力者たちを茶事・茶会に招き、客に招かれた人たちが、茶の湯の魅力に引き込まれるという、誠に理想的な展開でありました。さぞかし楽しい茶会であったでしょう。流派には、あまり、囚われず、道具本位である点は、武家の茶の湯に近いといえます。この人々のことを数寄者とよんでいます。近代に活躍した数寄者ですから、明治・大正の数寄者、近代の数寄者と言った方が、分かりやすいかもしれません。

 明治政府による西欧化政策は、日本文化の破棄を意味し、裏千家を始め、茶家は困窮しまた。茶の湯の衰退は、明治20年頃まで続きました。明治16年には文明開化の象徴、鹿鳴館が完成しています。しかし、そのような中でも、大阪の両替商平瀬露光(1839〜1908)のように江戸時代からの茶の湯その他の遊芸を楽しんだ人もいました。彼は、官休庵武者小路千家の後見までしています。
 
 近代の数寄者の先駈けは、安田善次郎(松翁)(安田財閥)、益田克徳(非黙)等の東京勢でした。明治20年(1887)、井上馨(世外)は、東大寺四聖坊八窓庵を自邸に移し、明治天皇の行幸茶会を開きました。これが、茶の湯復興の大きなきっかけとなりました。益田克徳(東京海上保険初代支配人他)は、明治13年頃から茶の湯を始め、兄益田孝(鈍翁)(三井物産創設者)など多くの財界の指導者を数寄(茶の湯)に引き込みました。
 
 高橋義雄(箒庵)(1861〜1938)が茶の湯を始めたのは、明治28年(1885)です。彼は、福沢諭吉に見いだされ、記者から実業界に入り、三越の近代化等に尽力した人です。彼は、益田克徳の茶会がきっかけで数寄にのめり込みました。阪急電鉄の創始者ある小林一三(逸翁)は、高橋箒庵の部下であった影響から数寄者になるという連鎖でした。明治29年(1896)には、益田鈍翁が大師会を始めました。弘法大師の座右銘を手に入れたことによります。明治30年には、16人の数寄者による和敬会が始められます。明治30年代には、茶の湯復興の気運が高まっていきます。茶家も漸く、復興していくのであります。明治36年には、平瀬露香蔵品の売り立てが行われ、この頃から、茶道具の価格が高騰していきます。明治45年には、高橋義雄(箒庵)が、時事新報に東都茶会記を連載します。これは、数寄者の茶会の詳細を記録したもので、茶の湯の振興に貢献したと思われます。大正3年以後、茶会記がある程度纏まる毎に、本となって出版されました。東都茶会記は、大正茶道記、昭和茶道記となって終生継続されます。大正7年には、住友吉左衛門(春翆)が大阪茶臼山邸好日庵において、清巌宗渭の墨蹟「懈怠比丘不期明日」、千宗旦の「邂逅比丘不期明日」を掛けて畢生の茶会を開きます。同年、東武鉄道創設者の根津嘉一郎(青山)が東京青山荘で初茶会を開きます。大正10年には、高橋箒庵が、着想から10年を掛けて「大正名器鑑」を出版します。これは、自ら、名家の所蔵品を見て歩き、茶碗と茶入の名品を纏めた不世出の名物集であります。その後、関東大震災(大正12年)によって、消失した名品も記録に残されました。昭和8年には、高橋箒庵が、東京中央放送局で毎月一回「12ヶ月の茶の湯」を放送しました。
 明治から大正にかけて、日本を担う財界の指導者達の間で広まった茶の湯は、日本各地の茶の湯の復興を促しまた。財界の有力者が茶の湯に没頭するのを地方の有力者達が知らないはずはありません。恐らく、日本各地で、有力者が茶の湯に傾倒したことは、想像に難くありません。
 
 近代の茶の湯として、もう一つの動きがありました。女子教育の一貫として茶道を取り入れたことであります。茶の湯は、それまで、武士をはじめ男子が主流でしたが、広く女性に普及し始めたのです。女子教育者の中にも急激な西欧化に対する危惧がありました。そこで、女子教育の手段として茶の湯を採用したのです。武家の作法よりは、茶の湯の作法の方が実用的であると考えたのです。茶の湯の作法は、物事の道理にかなった作法だからです。茶の湯の女子教育に功績があった女性に新島襄夫人新島八重子(宗竹)(1845〜1932)、裏千家又みょう斎夫人真精院(1850〜1916)、跡見学園創立者跡見花蹊(1840〜1926)、堀越梅子(宗圓)(1892〜1978)等が挙げられます。彼女達の努力は、現在も学校茶道に受け継がれています。また、地方の茶道の指導者も、今日、多くの女性が茶の湯に親しんでいる礎を築きました。

 安土桃山時代から江戸初期、多くの著名な茶人が輩出しました。明治から昭和初期は、それ以来の多くの茶人を排出した時期であります。時代背景は異なりますが、変革の後、新しい時代ということでは似ています。一世を風靡した人々であります。さらに、各地方においても、優れた茶人が続出したに違い有りません。名前も忘れられた多くの茶人がいたでありましょう。
 
 近代の数寄者達が収集した貴重な美術品、茶道具類は、彼等自身あるいは遺族により開設された美術館で一般に公開されたものが多くあります。また、彼等が残した茶室は、今日、多くの茶人に使用されており、この点でも、現在の茶の湯に貢献しています。それだけに、茶室を作る場合に、影響も大きいと思いますし、大いに参考にもなります。
 以下に、著名な近代の数寄者を掲げます。

近代の数寄者

数寄者名 生存年 出身地 主な職業 美術館名 現存茶室
井上馨(世外) 1835-1915 山口県吉敷郡湯田村 外務卿
安田善次郎(松翁) 1838-1921 富山県 安田財閥初代
平瀬亀之助(露香) 1839-1908 大阪 第三十二銀行、関西財界の重鎮
藤田傳三郎(香雪) 1841-1912 長州萩 阪界鉄道他 藤田美術館
馬越恭平(化生) 1844-1933 岡山県 日本麦酒会社(ビール王) 化生庵(護国寺)
上野理一(有竹) 1848-1919 丹波篠山 朝日新聞経営
益田孝(鈍翁) 1848-1938 佐渡相川 三井物産、三井同族会を法人化
三井八郎次郎(松籟) 1849-1919 京都 南三井家、三井物産、第一国立銀行他
三井高保(華精) 1850-1922 京都 室町三井家十代、三井銀行他 三井文庫へ寄贈
村山龍平(香雪) 1850-1933 伊勢田丸藩 朝日新聞創刊 香雪美術館 香雪他
岩崎弥之助 1851-1908 土佐 三菱財閥二代、第四代日銀総裁 静嘉堂文庫
益田克徳(非黙) 1852-1903 佐渡相川 東京海上保険他
野崎広太(幻庵) 1857-1941 岡山県 三越百貨店社長他
団琢磨(狸山) 1858-1932 福岡県 三井合名会社理事長(益田の後任)
根津嘉一郎(青山) 1860-1940 甲斐東山梨郡聖徳寺村 東部鉄道他、武蔵高等学校創立 根津美術館 無事庵他
高橋義雄(箒庵) 1861-1937 水戸 三井系実業家、三越百貨店近代化 円成庵(護国寺)
嘉納治兵衛(鶴翁) 1862-1951 奈良 白鶴酒造七代 白鶴美術館
住友吉左衛門(春翠) 1864-1926 京都 住友財閥 泉屋博古館
関藤次郎(宗無) 1864-1931 奈良 奈良晒呉服業 依水園 清秀庵他
益田英作(紅艶) 1865-1921 佐渡相川 古美術商多門店経営
原富太郎(三渓) 1868-1939 岐阜県稲葉郡 生糸貿易商 三渓園 春草廬(重文)他
土橋嘉兵衛(無声) 1868-1947 京都市玄琢村 茶道具商 大虚庵(光悦寺)
藤原銀次郎(暁雲) 1869-1960 長野県 王子製紙(製紙王)、藤原工業大学創立
富田重助(宗慶) 1872-1933 名古屋 名古屋電気鉄道、中京財界の重鎮 猿庵(申年生まれ)
小林一三(逸翁) 1873-1957 山梨県韮崎市 阪急電鉄、東宝、宝塚歌劇創立 逸翁美術館 即庵他
松永安左衛門(耳庵) 1875-1971 長崎県壱岐 電力事業、電力再編成 春草廬(東博)
野村徳七(得庵) 1878-1945 大阪 野村證券、大和銀行創立 野村美術館
畠山一清(即翁) 1881-1971 金沢 荏原製作所創立 畠山記念館 翠庵他
後藤幸三 1881-1977 岐阜県海津郡平田町 後藤商事他 昭和美術館 捻駕籠の席
五島慶太(古経楼) 1882-1959 長野県小県郡青木村 東京急行電鉄創立 五島美術館 古経楼他
山口吉郎兵衛(滴翠) 1883-1951 大阪 山口銀行、三和銀行創立 滴翠美術館
佐藤助九郎(助庵) 1896-1979 富山県砺波市 佐藤工業創立 佐藤記念美術館 助庵他
服部正次(山楓) 1900-1974 東京銀座 服部時計店三代 サンリツ服部美術館
湯木貞一 1901-1997 神戸市花隈 吉兆創業 湯木美術館
北村謹治郎 1904-1991 奈良県吉野 林業 北村美術館 珍散蓮
田部長右衛門(松露亭) 1906-1979 島根県飯石郡吉田村 島根県知事 田部美術館

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